「ろう文化論」にボロが・・

私は「ろう文化」はそんなに「素晴らしいもの」なのかなと思っています。

この話が聴覚障害や難聴を肯定的に考える、自己肯定感を上げることが目的なら、喜ばしい話だったのですが、次第に詳しい話がわかるにつれて、おかしな点に気づきました。

例えば「ろう文化論」には次のような主張があります。

「電車内で事故のアナウンスに気付かないのはろう文化」
「正当な手話は日本手話のみ」
「インテグレーションした人は自分たちとは違う」
「口話者はろうではない」
「ろう者の誇りとして、補聴器を使うべきではない、声を出すべきではない、ろう者の言語である日本手話で話すべきだ」
「ろうの両親から生まれた者のみが、ろう者である」

などが出てきました。

ろうである自分に誇りを持つのが自己肯定につながるなら望ましいことですが、現実にはこうした言い分のつじつまが合わない事が多いのです。

電車内で事故のアナウンスに気づかないのはどうみても、コミュニケーションや設備の問題です。

電話ができないのは文化でもないし、不便な事は誇れるものじゃなくて、社会とその認識に関わる問題ものであり、改善のための対策が必要です。

この「ろう文化」の主張でインテグレーションした人はろう者とは違うとするなど、手話が使えない他の聴覚障害者に対する排他的な話が出てきました。

日本手話至上主義、ろう文化至上主義者の会話を見ると、問題を解決するための工夫や手段が「ろう文化」と主張する時点で話にならなくなりました。

多くの方は黙っていますが、こうした独善的な主張に反感をもっている人もいます。

Aさんが質問のはじめにこうしたやり方が排他的で、健聴者への憎しみを感じてしまうと指摘されたのは本当にその通りなのです。

日本手話が絶対だと限定して、自分たちの行動を正当化する「ろう文化」を声高に主張する人達は話のつじつまが合わない点や都合が悪くなると黙り、話の要点を次々とそらしていることに気付きました。

様々な要因がありますが、現在のろう者の多くは聞こえる人たち、手話ができない人達の中に出て、自ら積極的にかかわるようにしているとはいえません。難聴者もそうです。

わたしが団体で話を聞いていて、ご都合主義だと思ったのは、自分たちがあたかも犠牲者であるかのように見せかけて、さらに学者やジャーナリストと呼ばれる、虎の威を借る狐のように、その考えが絶対であるかのように見せかけるやり方です。

「手話を使うろう者以外は認めない」という話もあります。

「聞こえる人たちは手話を覚えてください」という話も見ます。

そう主張しながら「聞こえる人達は手話を覚えるべきだ」という考え方が見え隠れしている場合もあります。

手話ができないからしかたが無い、健聴者を相手にしない、自ら聞こえる人達の中に出ていかない、かかわろうとしないなら、それらは自己満足のためのプロバガンダでしかなくなります。

この社会の身体障害者は手話しかできない聾者だけではないのです。

聴力が衰えて、日常生活に難儀している難聴者もいるのです。
手足が不自由な人もいれば、目が見えない人もいるのです。

「ろう文化」の主張の下に異論を許さなければ、他の身体障害者や一般の人達の反感を買うようになってもおかしくありません。

それは難聴・聴覚障害者を混乱させて、社会から孤立させることにつながりかねないことだと気づいているでしょうか?

その意味ではつじつまが合わないし、ボロが出ていると思います。

 

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    難聴・聴覚障害のコミュニケーションと心理状態について、日本でも数少ない当事者の専門家。専門家でも難しい「難聴である自身の自己肯定感の低さ」などメンタル問題を頑張らないで解決できる技法をコーチしています。日本各地からセッションを受けに来る方も多数。手話も学習中。

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