聴覚障害者はなぜ影響を受けてしまうのか?

私が以前、理事をつとめていた難聴者団体の役員は私に主体性のなさとプロバガンダに荷担してしまっていると指摘されると、マルクスの「資本論」を持ち出して論争をふっかけてきました。

どうなったでしょう?結果は最後に。

人間は聞こえない状態、音声で入ってくる情報が少なくなると、聞こえないことの不安から、無意識に主体性が下がってしまう傾向があります。

限られた情報だけで偏って判断したり、無意識に周囲の顔色をうかがうなど、その影響を受けることはめずらしくありません。

本人は自分の頭で考えていると思うでしょうが、聞こえる情報が限定される中で、耳が聞こえないことから来る、否定的な感情は強くなりやすいのです。

そうなると、感情の幅がだんだんと狭くなり、物事を0か100かで考える傾向が強くなります。

これは聞こえる人でも条件が合えば、100%同じようになります。

実のところ、こうした精神的な葛藤や生きづらさを感じるなどの否定的な感情は悩んで本を読めば解決できる問題ではありません。

私が難聴メンタルコーチで緩和できるよう、対応させていただいていますが、おいでになる方を見ると、例外なく否定的なエネルギーを抱え込んで、ガチガチの緊張感で固定されたままでいます。

わかりやすく書くと「こころにトゲがグサグサとささり、重い荷物を背負っている」状態です。

あるクライアントさんの話では私のセッションで初めて頭のモヤモヤ感が晴れた爽快感を実感できた!と話をいただきました。事前のヒアリングなど手間暇かけて行うのですが、こうした喜びの声をいただくと、疲れもふっとぶくらい嬉しいものです。

話がそれましたので戻しましょう。

身体障害を持って、散々否定的な経験を重ねて心理的な不安や恐れを抱え、「なんで自分はこんな目にあうのか」とマイナス思考が積もっているところに「あなたが苦しむのは社会の理解が足りないからだ」「国や社会のせいだ」と言われたら、コロリと信じてしまうでしょう。

さらに政治の階級闘争史観や社会に対する不満などから、対立を煽るのはサヨク運動家の常套手段です。

社会を変えればすぐに問題が解決するかのように思わせています。

しかし、それは重い荷物がさらに重くなるだけです。

障害者団体や運動の中で「理想の社会」を目指して社会を変えようとしていく中で、こうした人たちの話やプロバガンダに無意識に影響されたと思われる人も多くいます。

冒頭の話の続きです。マルクスの「資本論」の1960年代の学生闘争時代の学生必読書であり、若い私をぎゃふんと言わせようしたのでしょう。

わたしが、「資本論」が言葉をすり替えた理想論で、矛盾だらけのプロバガンダでしかないことなどを指摘し、逆に具体的な実現方法を求めると一方的に論争を打ち切ってきました。

みっともないなと思いましたが、そういう世界で生きてきたのですから無理もありません。

実際、「プロレタリアート民主主義」「階級闘争論」を言葉の意味を巧妙にすり替え「民主主義」と称しているのは知られつつあります。

このように「ろう文化宣言」が問題解決のためではなく、理想論プロバガンダの発想にすり替えられて、日本の歴史では筋が通らない階級闘争史観があったという思い込み、いわゆる「アカン学者」が主張する嘘に踊らされていたことになります。

それで個人のメンタル的な問題を解決できたかといえばできていないんですね。

難聴であるがゆえに、コミュニケーション不全から来る問題を、悲壮感をもって訴えたり、いたずらに権利と主張したり、誰かになんとかしてもらおうとして、自ら主体性をもって解決してこなかったのではないか?と思います。

一人一人実態はことなるでしょうが、これまでの結果が今日の私たち難聴・聴覚障害者たちへの「信用」「評価」になっているのではないかと思うのです。

誰かになんとかしてもらおうと待つのではなく、自分個人が先に主体性をもって動くことで道は切り開かれます。

また、「ろう文化宣言」に関わるろう者は「手話は昔から続くろう文化だ」といいますが、本当でしょうか?

次回につづきます。

    The following two tabs change content below.
    難聴・聴覚障害のコミュニケーションと心理状態について、日本でも数少ない当事者の専門家。専門家でも難しい「難聴である自身の自己肯定感の低さ」などメンタル問題を頑張らないで解決できる技法をコーチしています。日本各地からセッションを受けに来る方も多数。手話も学習中。

    コメントは受け付けていません。