議論のための議論でしかない「ろう文化論」

「ろう文化論」の主張を見て行くと、手話はコミュニケーションの1つの手段でしかないのに、あきらかに目的にすり替わっている面も見られます。

まず、手話については大まかに2つの系統があります。

古くからあるという日本手話と話し言葉にあわせて作られている日本語対応手話の2つの流れがあります。

以前、全日本ろうあ連盟は日本手話を核にしたうえで、日本語対応手話を排除すべきではない見解をホームページに掲載していました。

一方で日本語対応手話の使用は徹底的に排除すべき、口話教育は排除すべきとする意見があり、この立場に立つのが木村晴美さんたちDプロや全国ろう児をもつ親の会、明晴学園などでした。

「日本手話を使うべき」と言うけれど、その理由は「ろう者が昔から使ってきたから」だけで、筋の通った説明はみたことがありません。

日本語対応手話は、聴覚障害者の日本語の力を高めることも目的としており、文法もあり、本でも学ぶことができます。

これに対して、日本手話は、相当省略して、表現していることがあります。

学校に行けなかった聴覚障害者には便利かもしれませんが、表現が大ざっぱすぎて難しいのです。

日本手話は、顔の表情で全然意味が違って来るし、細かい話ができない短所があります。

手の動かし方や表情の使い方などで表現できるという人も居ますが、ばらつきもあり、地域毎の方言も多くあります。なぜそれを言わないのでしょうか?

念のため、複数の手話通訳の方にお聞きしましたが、全員が日本手話は読み取りが難しい、文章にできないことが多いと口をそろえていました。

このように日本手話は読み取り通訳では誤訳が多い問題があります。

さらに健聴者や中途失聴者の習得が困難な面があります。

「日本手話だけ」が絶対になれば、日本手話がわからない多くの健聴者=社会とのコミュニケーションが難しくなります。

手話の語彙は日本語の慣用句から成立している例が多くあります。
手話には言語としての日本語が土台にあり、話し言葉、書き言葉としての日本語と相互に媒介しあって発展する関係です。

なのに、日本手話と日本語対応手話を対立的にとらえようとしているのはおかしな話で、話になりません。

日本手話と日本語対応手話を対立的にとらえようとする話などに見られるのが、発言と行動のつじつまが合わないことです。

これで「ろう文化」を主張しても、議論のための議論でしかありません。

当事者としても、こうした話をする人たちとは距離を置いています。

ろう者だけではありません。中途失聴を含めた難聴者にもいえることです。

わたしが聞こえる方と円満なコミュニケーションを重ねていくと、「前川さんだから話しますが・・・」と痛い話を教えられることがあります。

話の中でいきなり「差別になる可能性」といった具合に話を出す人が多いのだそうです。

私も実際にその場に居合わせたことがありますが、これだと「差別」を使って言い分を通そうとする、ご都合主義でしかなくなります。

現在の課題をどのように解決するかを考える中で、「サベツガー」「ケンポウガー」などを錦の御旗にするような話はあっても、どのように解決するかの話となると、受け身になる話がほとんどで、具体的かつ前向きな話を見たことがありません。

かつてのわたしも似たような考え方だったので偉そうに言えませんが、声高に「サベツガー」「ケンポウガー」と主張するのは間違いなく反感を買うし、信頼されるはずがありません。

そんな困難な頑張りではなく、聴覚障害者としての感情のコントロール、ものの考え方やコミュニケーション技法などをお金を払って学び、教えてもらいながら、周囲の人達と円満な関係を構築してきましたが、正解だったと思います。

 

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    難聴・聴覚障害のコミュニケーションと心理状態について、日本でも数少ない当事者の専門家。専門家でも難しい「難聴である自身の自己肯定感の低さ」などメンタル問題を頑張らないで解決できる技法をコーチしています。日本各地からセッションを受けに来る方も多数。手話も学習中。

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