「聴覚障害児教育で成功した事例」が実は自分のことだったら?

長い間あちこちで聞かされてきた「聴覚障害児教育で成功した事例」が実は自分のことだったら?

そんなことある?

はい、あります。

本当にあったのです。

わたしが「聴覚障害児教育で成功した事例」として、「聞こえる人並みになった」とされていた話がその事例です。

ただし、どこかで私の名前が消え、伝言ゲームのように意味が変化していましたが。

さらに裏取りをしていない無責任な話も混ざって「厳しい猛特訓の結果、聞こえる人並みになった」の話が一人歩きしていました。

以下は私が社会に出て、ハローワークで何度も聞かされた話です。

「聴覚障害児教育で成功した人がいる」、
「聞こえる人並みに会話ができる」、
「電話ができるようになった」

当時は「●●さんのことだろうか?頑張らねば」と思っていました。

しかし、その●●さんと再会したとき、意外なことを知りました。

ろう学校の時は優秀だと言われていたのが、自信をなくしており、コミュニケーションもままならない状態でした。

後に所用でハローワークに行き、「電話ができるようになった」話がまた出てきたので、おかしいことを思いだし、「それはどこで聞きましたか?」とたずねて、出てきた話を時系列的にたどっていくと…他人の話が混ざった私の事じゃないか!と気づきました。

教訓 出所の不明な話は鵜呑みにしない

全てではないけれど、経験してきた立場から口話訓練について書きます。

わたしが京都府立聾学校幼稚部に通っていた1975年は小型化されたポケットに入る大きさの箱形補聴器が出始めたことから、補聴器を使い、わずかにある残存聴力を活用した聴覚口話訓練(教育)が主でした。

写真の左の補聴器が当時の補聴器です。当時の重度難聴者向けの補聴器は箱形しかありませんでした。

auto-6czy6V
昭和初期に行われていた口話教育とは異なり、補聴器を使うことによって残存聴力を使います。

聞こえても無音状態あるいはかすかにしか聞こえない音もあり、女性の高い声はよく聞こえません。もっともわたしは気づいていませんでした。

当時は口話訓練で手話を使うことを否定していたことは事実ですが、これは口話の取得を妨げないことがねらいにありました。

さらに日本語の読み書きを取得する段階で、手話を使うと児童が混乱して、日本語を獲得できなくなる可能性があるとされためでした。

実際、日本語の読み書きが苦手な人も多いのは手話だけで育った児童に多く見られます。

当時の考え方としては、聴覚障害を克服して、健聴者に近づく事、健聴者並になることを目指していました。

わたしの母が訓練するそのやり方は正しく発音できないと叩くなど、スパルタ教育で3~5歳の幼児には厳しいものでした。

auto-XTSwH0

成人してからも発音で言う、母になんでそんなに厳しくするのか、とたずねた時、健聴者並になってほしいと思っていること、厳しくやらないと翌日に先生が機嫌を悪くして注意してくるので、逆らえなかったと話しました。

当時は情報も限られている中、「絶対権威」でもあった先生に若い母が「それはおかしい」と言えなかったでしょう。

その先生もまだ20代の若い、社会経験の少ない人でしかなかったのです。

私のようにきこえの問題と関連してくる感情の問題と向き合い、解決する方法を見いだしたなどの経験なんてありません。ろう学校の先生が難聴メンタルコーチを受けに来るくらいですから。

後年になって知ったのですが、聴覚口話訓練は本来ならできるだけ楽しく指導する必要があると指摘されていました。

それが3~4歳の幼児にとっては厳しいスパルタ教育にすり替えられていたのです。

ただ、考えないといけないのはそれが、当時の社会情勢も影響していたことも考慮しないといけない点です。

当時の聴覚障害者は準禁治産者など、社会的な資格が制限されていましたから、こうした問題を解決するには聞こえる人並みにならなければならないと考えが出てもおかしくなかったでしょう。

同時に、当時の京都府は共産党政権知事であり、報道も全て学生運動にはじまる左翼政権ヨイショの全盛期といってもいい時代に、「権威」に異論をはさむことはできない空気もありました。

当時の考え方にもとづくやり方で不幸にも親子間に軋轢が起こった家が多くあったのは事実です。

昔の「厳しくするのがよい」とした風習もありますが、昭和43年(1968年)に亡くなられた両手・両足の切断というハンデにも拘らず、厳しく育てられ、親と引き離され、自立した生活を送った中村久子さんが有名で、その話が誇張して報道された影響もあったのではないかと思います。

中村久子さんは立派ですが、全ての人が彼女と同じようになれるわけではありません。

実際、中村久子さんも長く親を恨んでいたと著書で述べています。

これは身体障害者で厳しく育てられた人に共通して見られます。

ある難聴者の老女は厳しくされたことで、亡くなった親を恨んでいました。

完全に聴力がないのに、口話が適しないのに訓練でしても、できなかったことから、「成功しなかった」と見なされた例もあったでしょう。

他にも親子の関係が悪くなったり、厳しく育てられたり、親からいろいろと言われ続けた結果、成人してから親と距離を置いたり、関わりを避けるようになった話も多くあります。

実際、わたしも幼い頃から両親からいわれてきた言葉への反感と自己肯定感の低さや自分に対する劣等感や怒りがずっと尾を引いていましたし、

わたしが自分の「心のとげを抜く」まで、母との関係は良好とはいえませんでした。

わたしは幸いにメンターと出会ったおかげで「心のとげを抜く」ことができ、母の最後を看取ることができました。

しかし、同じように当時の無理なやり方で親に激しい怒りを抱いている人は多く、「心のとげ」が後悔を再生産していることもめずらしくありません。

私が難聴メンタルコーチでも同じように経験してきた方への「心のとげを抜く」お手伝いをしていますが、実際に抜け出すのは自分の努力や頑張りでは不可能でした。

聴覚障害者団体は様々なしばりから、こうした問題に手を打てないでしょう。

当時は現在より聴覚障害者に関する話もたびたびマスコミで報道され、高校に合格した、大学に合格したなどの「成功した事例」が美談として報道されました。

マスコミの無責任な美談的な報道によってやたらと比べられたり、ハードルが高くなった面もあったでしょう。

現在に至るまで引きずっている問題をみていくと、幼少時から潜在的に抱えてきた、これらの事象に対する強い怒りを含めたマイナスの感情が、聞こえる人達と良好な人間関係を構築できないなどの悪影響をもたらしています。

多くの団体では「身体障害者だからしかたが無い」と後ろ向きに言います。

でも、そんなことはありません。

もちろん自分での努力と頑張りだけでは不可能ですから、適切な学びと支援を受ける必要があります。

適切なプロセスを経て、緩和することはできます。

そのプロセス1つとして、わたしが行っている難聴メンタルコーチがあります。

実際、70代後半になってもなかなか変われない例を見て、わたしは自分に支援あるいは教えてくれる所があったら、こんなに時間をかけなくて済んだのにとも思いもします。

次回はちょっと閑話休題で、手話通訳と要約筆記の活用例について、気づいた事を書きます。

    The following two tabs change content below.
    難聴・聴覚障害のコミュニケーションと心理状態について、日本でも数少ない当事者の専門家。専門家でも難しい「難聴である自身の自己肯定感の低さ」などメンタル問題を頑張らないで解決できる技法をコーチしています。日本各地からセッションを受けに来る方も多数。手話も学習中。

    コメントは受け付けていません。