前回、市議会でろう者からの手話言語法条例制定の陳情を受けて、市議が手話教育に関するネット上の「手話を取り上げられた」話を鵜呑みにして、意見書が議会で決議されていたことを叱った事を書きました。
市議がきちんとした適切な裏付けをとらず、ネット上にある誤った話を鵜呑みにした意見書を書いていたこと、陳情したろう者にも確認をとっていなかったことを書きました。
こうしたパフォーマンスは結果として市政に対する評価を下げるだけでなく、難聴・聴覚障害者の社会的な信用を落とすことになります。
わたしは手話言語法あるいは手話言語条例制定はないよりはあった方が望ましいと思っています。ただし、それが「ろう者のために手話を覚える」あるいは「覚えさせる」ようなものなら不要です。
手話そのものが禁止されたわけではないのに、なぜ「手話を禁止された」というのでしょう?
ひとつは手話で偏見や不自由なく、コミュニケーションができるようになりたいという願望からです。
それはいいのですが、中には昔の手話教育について裏付けをとらず、書いているものがあります。
そのわかりやすい例として、インターネット上に下のような内容があります。
「ぼくたちのことばを奪わないで!」と
これは「耳の聞こえない可哀想な子供達」を盾にして
”「日本のろう学校では手話を使っていない、禁止しているんだって!口話で子供を虐待したり、日本手話を抑圧してひどい話だよね?それでやむなく立ち上がった人たちがいるんだよ、みんなで日本手話を応援しようよ!」”
と書かれていれば、どう感じるでしょう?
「そうなの?」
と、わかりやすくなります。
物語、とくに可哀想な物語ほど人を引きつけるものはありません。
善悪の構図もはっきりしていて、子供の不幸な物語を演出して、「同情」を売りにすれば、どちらを応援したら良いか一目瞭然です。
ここに「弱者」「人権」「差別」といった誰もが反論しにくい言葉を錦の御旗にしたら最強です。
そう、「恥ずかしい主張」であり、プロバガンダに使われる常套手段です。
ひどいものは昔と現在をごちゃ混ぜにした書き方をして、自分を肯定できないのは公立聾学校と親の責任だというような批判で、対立を正当化する情けない話も見ました。
しかし、実際の事情は人の数だけあります。
「これが絶対」という事はありません。わたしも例外ではありません。
無知から来る「差別」があるのは否定できません。
わたしも経験しています。そして、当人がどう肯定的にもって行くかの過程も大切になります。
なのに全てがそうであったかのような話をしたら、詳しい事情を知らない人が混乱するのは当然です。
共通して見られるのは、客観的な根拠を示さず主観のみで結論ありきで話をするのが特徴です。
聞こえる皆さんはこの方面で経験や知識がないので、黙るかあるいは鵜呑みにしてしまう場合もあります。
今や「『いわゆる従軍慰安婦』の強制連行があった」と報道して、2014年に撤回して謝罪せず、逃げた結果、「嘘つき新聞」として有名になった朝○新聞と左巻きの皆さんがやってきたプロバガンダで「恥ずかしい主張」を繰り返してきたのと全く同じ構図です。
本来なら他の当事者が「それはおかしい」と注意すればよかったでしょうが、当時の事実を知る人が年を取って活動から引退されたり、物故していくにつれて、1990年代初めから出てきました。
わたしは難聴者団体の役員をしていた頃、総会などのイベントに会長から参加をお願いされ、参加しましたが、その都度、この手の「恥ずかしい主張」を見ました。
こうした話では聴覚障害者に多い主体性の弱さから、当事者が反論できず、ついつい影響されたり、沈黙してしまったことで、「手話を取り上げられた」「手話を禁止された」話が、あたかも真実であるかのように拡散してしまったともいえます。
いずれにせよ、当時者が言うべき時にはっきり言わなかったツケが出てきた面もあると思います。
次回で私の経験を交えて「手話を取り上げられた」話が事実ではないことを書いていきます。


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